大阪市立大学ボート史

―短艇競漕の発祥から明治・大正・昭和初期まで―

目 次

    まえがき

第1部.ボート競技の発祥

 (1)バッテーラ艇の購入

 (2)短艇競漕の始まり

 (3)創始者は誰か

 (4)当時のクラブ活動

第2部.水上運動会(現ボート祭)の歴史

 (1)開催の記録

 (2)企業・学校など外部からの参加

 (3)ボート競技全盛の時代

 (4)ボート熱はなぜ冷めていったのか              

 (5)戦後第1回のボート祭

第3部.ボート部の歴史―明治・大正から昭和初期まで―

 (1)ボート部の創設                        

 (2)対外試合の記録

 (3)活躍を伝える当時の記事から

 (4)新艇建造の記録

 (5)学内に五つのボートクラブが存在した時代

 (6)固定席艇からスライディング式シェル艇へ       

    参考資料


まえがき

日本におけるボート競技は在留英国人によって始められ、明治15年隅田川での東京帝国大学と体操伝習所(筑波大学前身校の一つ)の対戦が日本初のレースとされている。

一方、本学のボート祭(当時、水上運動会と称した)は明治22年に始まって、本学のメイン行事として、戦時中の3年間以外は、連綿と開催されてきた。一方ボート部(当時、水上部)は同じく明治22年に創設された事がほぼ確実である。

ボート祭の開催あるいはボート部の創設以前に、それに至る下地があったのではないか。もしその様な史実が見つかれば、日本のボート史を塗り替える可能性があるかも知れないと日本ボート協会の方からご示唆を頂いた。

一方、ボート部の歴史についても、エイトを導入した昭和5年以降については部誌「紅橈」にかなりの記録が載っているが、それ以前の状況については全く不明のままであった。

このような動機から、本学の「大学史資料室」に保存されている大阪商業講習所創立以来の年史や会報など諸種の資料を洗い直し、本学におけるボートの歴史を特に黎明期に主眼をおいて調査してみた次第である。

残念ながら日本のボート史を塗り替えるような発見には至らなかったが、本学のボートは全国でも指折りの古く且つ誇りある歴史を持つ事が改めて確認できた。

調べてみて興味深かったのは、明治・大正の頃、ボート競技が驚くほど隆盛を極めていたことである。

なぜボート競技がこれほどまで一般市民にとってもメインイベントだったのか。この頃はまだ、ボートのほかにはさしてスポーツやイベントがなかったことなど理由は幾つか挙げられようが、とにかく東京、大阪を問わずボートが大変な熱狂を巻き起こしていたのは間違いない事実である。

関西における熱狂の渦の中心は琵琶湖と大阪、そして大阪での花形は本学の競漕大会だった。

資料から文章を引用するに当っては、当時の雰囲気をそのまま伝えるため、できるだけ原文のまま転記した。

本冊子の編纂に当ってなにかとご教示を賜り、その上、貴重な写真を頂戴した日本ボート協会の古城庸夫先生並びに谷康夫様、また資料を選び出すについてご助力頂いた大阪市立大学大学史資料室・森英子様に心より御礼を申し上げます。

大阪市立大学ボート部・紅橈会

河﨑 清(昭和29年卒)


第1部.ボート競技の発祥

明治13年に創立された本学の源流である大阪商業講習所(明治13年~18年)の現存する資料には、ボートに関連するものは一切見出せない。したがって、商業講習所時代にはボート競技はまだ誕生していなかったものと推察される。

その少し後の時代、即ち明治18年に改組された府立大阪商業学校の時代に、初めて短艇の購入と競漕会開催の記録が現れる。

(1)バッテーラ艇の購入

明治21年7月(1888年) 府立大阪商業学校の公式文書に 「生徒体育奨励のためバッテーラ(長4間幅4尺8寸 深1尺9寸)3艘を金161円40銭にて大和田幸次郎より購求せり」との文言が記載されている。

 当時としては破格の大金を投じて短艇競技開始の準備が整えられたのである。

註 (1)

1間=6尺=181cm、1尺=10寸=30.3cm

(2) 購入先 大和田幸次郎について

この記録には氏名しか記されていないが、明治33年第12回大会から水上運動会番組表に広告が掲載されるようになり、次のような広告がある。

端艇新造修繕    各学校銀行諸会社御用

   元祖 大和田造船所

        大阪市西区江ノ子島東町41番屋敷

   材料精撰 製作巧緻 価格低廉

大和田幸次郎はこれと同じ先であろう。

しかし明治21年に大阪で端艇を発注する者は他にはいなかった筈であり、第1回発注時にはいわゆる船大工ではなかったかと推測される。大和田氏に端艇建造の経験がなかったとすれば、どこかで艇を見せたのかあるいは図面に依ったのか、このあたりも定かではない。

なお、明治33年以降の番組表には大和田造船所の他に君崎造船所、旭競艇製作所(いずれも大阪)の広告があり、端艇競技が急速に普及した様子が伺える。

この記録には端艇購入の理由として「生徒体育奨励のため」と簡潔に記されているだけで、発注決定に至る経緯などには触れていない。

(2)短艇競漕の始まり

<明治22年創部当時の部員>

明治22年6月22日

前年からの準備を経て、いよいよ記念すべき第1回水上運動会が堂島川渡辺橋―大江橋間において開催された。

同年9月30日、大阪市の発足に伴って本校は大阪府から大阪市に移管され、市立大阪商業学校と改称された。

したがって、府立商業学校としての開催はこの1回限りで、翌年からは市立大阪商業学校の大会となった。以降は学校の昇格に伴って市立大阪高等商業学校(のち大阪市立高等商業学校)、さらに大阪商科大学と引き継がれて今日の大阪市立大学ボート祭に至っている。   <その盛況ぶりは第2部に>

<高商時代の艇庫>

<市大百年史より:川岸を埋め尽くす観客。 市長、商工会議所会頭も応援に!>

また、ボート部も水上部の名称で同じく明治22年に設立されている。ボート部の歴史については第3部で述べる。

註 競漕用艇の名称は「短艇」か「端艇」か

本校の競漕会は、最初水上運動会と称され、明治26年から、短艇競漕会と名称が変り、明治30年代の大会プログラムでは競漕大会となっている。

一般的に当初は短艇と端艇が入り混じって使われていたが、次第に端艇の方が多くなったようであり、本校の会報等でも年とともに端艇の文字が多くなって短艇は使われなくなり、大正に入ると端艇一色となる。

(3)創始者は誰か

学校に新しい競技をしかも大掛かりに導入するについては、それより以前になにかの動機があって関心が高まり、導入の是非の検討、担当組織の編成、予算申請などの動きがあった上で開催に至るのが自然であろうと思われる。

日本ボート協会からそのようなご示唆を頂き、例えば、神戸外人居留地のレースに出漕していないかなど事前の動きを調べてみたたが、結局、前述の明治21年バッテーラ艇3艘購入のほかには準備段階の動きを記録した資料は残っていなかった。 この点は本学のボート史を解明する上で大変残念である。

競漕会開始に至る準備段階の記録がないので、創始者についての公式な記録はない。ただ、大正4年発行の校友会報「桃皋第6号」に掲載されている 「創立35年回顧座談会」の中に、明治22年から37年まで勤務した旧職員の方の次の様に発言がある。

 (桃皋第6号より)

『競漕が始まったのは主として太田正躬氏その他の東京高商出の先生たちの

主唱によりて隅田川のそれに倣ったものである。 最初は水上警察の他には相手がいなかった』

端艇競技を始めるきっかけになるような記録が他に全く存在しないので、やはりこの発言の通り、太田正躬氏を始めとする東京高商出身の先生方の提唱によって始められたとみるのが妥当と考えられる。

なお、明治32年開催の第11回端艇競漕会番組表に掲載されている審判員5名の中に、「太田正躬君」の名がある。

ただ、ほかの年次の番組表にはなぜか太田氏の名前は載っていない。

太田正躬氏について日本ボート協会の谷康史氏がお調べ下さった所によると「太田氏は正岡子規の友人として知られ、子規と同郷の松山出身で東京高商卒。

子規もボートの選手だったので、なんらかの関与があったかも知れない」との事である。

(4)当時のクラブ活動

創立当初は授業以外の学生の活動についても学校が直接管轄していたようだが、明治32年に「校友会」が設立され、以後は校友会の所管となった。

この頃、水上部は他の諸部とは比較にならないほどの特別扱いで、最重点がおかれていた。その様子は参考諸資料から伺い知ることができる。

(市立大阪高等商業学校一覧より)

〇明治32年4月14日 従来存せし種々の会の統一を計り職員生徒より成れる校友会を組織せり。全員入会とする。(校長訓示)

〇校友会規程(明治36年12月26日改正)

第1章総則

第3条 本会は左の諸部を置く

「学芸部」 雑誌部 商事研究部 講演部 語学部

「体育部」 水上部 陸上部

廷球部 柔道部

註 水上部=ボート部 廷球=庭球=テニス

雑則 第24条

新たに入学したる者は本会入会金として2円を納める。この入会金は特別会計として端艇の新造費その他に充当する。

(大阪商科大学60年史より)

「学友会の項」(明治32年4月設立の校友会を大正15年学友会に改組)

明治40年、校友会の予算総額1430円の内、水上部500円

水上部が断然高額の経費を割り振られているのは、この時代如何に

端艇競漕が時代の好尚に投じていたかを雄弁に物語る。(中略)

因みに、明治39年1月11日の校友会総会において、この度進水の端艇新造の件を議決すると共に、これを賄うために会費2円を3円に値上げする件を可決している。

(大阪商科大学60年史より 第2章大阪商業学校 (10)新しき時代へ)

一般にこの時代わが国陸上運動界は頗る幼稚の域にあり、今日より見て誠に隔世の感が深い。 しかし陸上競技の不振に比して水上の端艇競漕のみは中々盛大を極めたものであった。 東では隅田川、西では琵琶湖と大川、いずれも盛んに人気を沸き立たせた。この西の大川で第一花形となったのは実にわが校であった。 (中略)

この前後(註・明治20年代後半~30年年代)、端艇に対する一般の関心はいよいよ深く、わが校は年々多額の経費を支出してこの地、端艇界の発展に寄与するところ少なくなかったのである。(中略)

こんな次第で、明治20年代には運動といっても端艇よりほかにはなかったという有様なので、自然スポーツ好きの連中はこの技に身を入れた訳である。 後にわが財界に大きな足跡を印した喜多又蔵氏の如きも、かってはオールを握って大川を上下し、しかも喜多君は乗れば必ず艇を一度は安治川橋付近まで漕ぎ下し、川口の波止場に船がかりしている汽船を飽かず眺めて思いを海の彼方に馳せ、他日の雄飛を夢見ていたと云われているが、その当時あの辺り一帯の風物は、政府といわれた大阪府庁、木津川橋、川口居留地、税関波止場、商船会社等々、確かに若人を惹きつけるに足る強い魅力をもっていた。

端艇競漕会は毎年堂島川の各所で催された。今の大阪帝大医学部前のガンギに桟敷が設けられたこともあり、更に上流の今の中央電話局の在る辺りで催されたこともある。或いは渡辺橋の上流、元米穀取引所前の川の中に桟敷が掛けられたこともあり、大江橋上流控訴院前の河岸や銀行集会所前の付近が決勝点になったこともある。 (中略)

端艇競漕の盛大に比して陸上の運動競技の発達は実に遅々としていた。庭球がその頃職員生徒の有志の間で行われていたが、その第1回の競技会は明治34年10月26・27の両日に開催された。柔道部は更にその翌35年の6月1日に出来、剣道部は4年の後、即ち38年5月26日に道場開きができたという有様。 柔道剣道の合同の大会が催されることになったのは、日露戦役以後のことである。 その余の各種陸上競技部はいずれもこの以後、追々に発生しきたったのであった。

如上の次第で、わが学校生活も単に新型の学問を履修するばかりでなく、知育に体育に直接学校よりする教育のほかに、それと相表裏して行う新教育組織なる校友会を整備し発展せしむることとなり、これによって学生生活は一段と多彩となり来たったことは、一応注目すべきであろう。

かくの如くして、われ等は次の発展段階なる大阪高等商業時代を迎えることとなったのである。

第2部.水上運動会(現ボート祭)の歴史

(1)開催記録

前述の通り本学のボート祭は明治22年に始まり、直近では平成25年に第122回目の大会が開催された。本冊子には、このうち各種の資料に記事が掲載されている年次だけを取り上げて記載した。これ以外の年についても開催年次と第何回の数字が先の大戦中の3年を除けば合致するので、このブランク以外は一度も途切れることなく開催されてきたことは間違いない。

会場は、当初20年間は中之島界隈で堂島川と一時期は土佐堀川。その後数年は大阪築港や堺に移ったが、大正2年再び堂島川に復帰した。しかし往来する船舶が増加したため昭和7年以降は上流の桜ノ宮での開催となり、今日に至っている。

明治22年6月22日 第1回水上運動会 開催場所 堂島川渡辺橋―大江橋

明治25年5月15日 第4回  堂島川

明治26年11月5日 第5回  堂島川田蓑橋上流 この回から「短艇競漕会」に名称を変更、この回から新艇3艘 「なにはつ」「さくや」「このはな」 を使用

明治28年6月2日  第7回  堂島川

明治29年6月7日  第8回  堂島川

明治30年5月23日 第9回  堂島川

明治31年5月22日 第10回 堂島川 渡辺橋上流

明治32年5月21日 第11回 堂島川 渡辺橋上流

明治33年5月27日 第12回 堂島川

この回から新艇3艘 「こすえ」「いはね」「はつせ」 を使用

明治38年4月    第17回 堂島川

「短艇競漕熱激甚の余り、校内において一部の生徒間に損傷のことありたり」との記録がある

明治39年5月20日 第18回 堂島川

この回から新艇3艘 「浪花津」「咲也」「此花」 を使用

(艇名は旧艇名を踏襲)

明治40年5月12日 第19回 土佐堀川・中之島公園前

明治42年5月2日  第21回 土佐堀川・旧日銀前―浪速橋

明治43年5月8日  第22回 会場を大阪築港に移して開催

明治44年       第23回 大阪築港

明治45年       第24回 堺大浜北公園にて開催

大正2年        第25回 再び堂島川大江橋上流にて開催

大正3年9月27日  第26回 堂島川

この回から新艇3艘 「なにはづ」「さくや」「このはな」を使用

(艇名は旧艇名を踏襲)

昭和7年5月22日  第44回 大川桜ノ宮(新艇庫竣工記念)

学部・年度対抗レースに初めてクリンカーフォアを使用現役・OB対抗エキジビションレースにはエイトを使用それ以外は従来どおり固定席艇を使用

昭和11年5月10日  第48回 大川桜ノ宮

上記以外の年は残念ながら記録が残っていない

(2)企業・学校など外部からの参加

明治22年に本校が「水上運動会」を始めたときは、少なくとも大阪では他に短艇競技をやっている学校や企業はなかったが、その後10年ほどの間に急速に普及して、明治30年代から大正にかけてボートは花形スポーツとなっていった。

そして本校の水上運動会(後に短艇競漕会と改称)に大阪の会社・大商店や近畿地区の各校がこぞって参加するようになり、大阪の名物行事として市民の間にも定着し隆盛を極めたのである。

当時の番組表などから判る範囲で学外からの参加クルーを列挙すると以下の通りである。これほど多くの企業や学校が本校の短艇競漕会に出場していたことに驚ろかされるとともに、当時はボート競技が今では想像もできないほど一般にいきわたり隆盛を極めていたことが納得できる。

明治31年日本銀行3艇 第一銀行2艇 帝国商業銀行 鴻池銀行 三井物産会社 三井銀行 北浜銀行 朝日商社 日本綿花会社 大阪商船会社

日本郵船会社 大阪倉庫会社 三菱会社3艇 大阪有志倶楽部3艇

第三高等学校2艇 神戸商業学校 大阪私市商業学校 大阪医学校

第一尋常中学 第五尋常中学

(合計 会社等21  学校7)

同 32年 従来からの参加クルーに加えて次の各クルーが初参加

浪速銀行 井上銀行 大阪実業銀行 内外綿会社 大阪水上警察署

神戸短艇倶楽部3艇 進歩倶楽部

東雲学校 大阪工業学校 大阪師範学校 滋賀師範学校

(合計 会社等30  学校11)

同 33年 従来からの参加クルーに加えて次の各クルーが初参加

高田商会 住友銀行 第一倶楽部

(合計 会社等33  学校11)

同 36年 初参加は次の通り

大阪耶志摩倶楽部 大阪六六会 大阪初音倶楽部 電艇倶楽部浩養倶楽部関西商工学校 北野中学校 天王寺中学校 滋賀商業学校

(合計 会社等36 学校15)

同42年 住友倶楽部 大阪新報 八幡倶楽部 商工アイアン倶楽部 六稜倶楽部 商工春雨倶楽部 水上警察署 大阪税関 日本海上保険会社

帝国商業銀行 大阪瓦斯 八木商店 長瀬染料店 日本綿花会社

北野中学2艇 天王寺中学 堺中学 滋賀商業学校2艇 御影師範

(合計 会社等14 学校7)

同43年 江商合資会社 日本海上保険会社 野村商店

神戸商業箙倶楽部 日本綿花会社 大阪瓦斯 長瀬商店 大阪商工アイアン倶楽部 神戸高商葺合倶楽部 商工春雨倶楽部 秋津倶楽部 堺中学

(合計 会社等11 学校1)

註: この年は大阪築港で開催されたので、地理的な不便さと海上でのレースになる点を考慮して、中学などの参加が少なかったのではないか?

大正2年 住友総本店3艇 商工倶楽部 浪速銀行

大阪市役所 毎日新聞社 日本海上保険会社 日本綿花会社 大阪瓦斯 神戸商業青葉倶楽部八幡商業 愛知第一中学 京都第二中学

御影師範2艇 同志社 第三高等学校

(合計 会社等11 学校7)

同 3年 大阪税関 築港港湾課 天狗倶楽部 鈴木商店 川北電気企業社

三井物産 大阪電気局 日本電球会社 三光倶楽部 宇治川倶楽部

三菱営業部 三菱銀行部 岩井商店 長瀬商店 林音商店 津田商店 住友倶楽部 大日本人造肥料 膳所中学 京都第二中学

京都第一商業 四日市商業2艇 八幡商業

(合計 会社等18 学校6)

昭和7年 大阪株式取引所 鉄道倶楽部 大鉄鷹取工場 住友銀行 住友倉庫日本銀行 大丸 大阪外国語大学 関西大学 京都第一商業 八幡商業 御影師範摩耶専

(合計 会社等7 学校5)

註1 この年、岸和田に天然痘が発生し、このため多数の参加中止があった

註2 大正の後半にスライディングシート艇が日本のボート界に導入され、最初はフオァ、少し遅れてエイトが普及していった。ちなみに本学のボート部がエイトを主力としたのは昭和5年からである。 このような背景から、学外招待レースはこの頃からフオァと固定席の2種目で行われるようになった。

一方、本学学生間のレースは一部を除き固定席艇で行われ、昭和30年代中頃?にナックルフォアに替わるまで続いた。

昭和11年 OM倶楽部 伊藤忠商事 住友電線鷹取工場 田附商店 大阪商事

大阪株式取引所 大丸 石原産業 日本セルロイド 三菱製錬所

日本生命 関西大学 龍谷大学 彦根高商 阪大工学部 和歌山中学

大林組 同志社大学 同志社高商  兵庫師範摩耶 兵庫師範甲陽園

(3)ボート競技全盛の時代

ボート競技の隆盛を物語る記事の一端を年史や会報から引用する。

(大阪商科大学60年史より「大阪商業学校時代」より)

この当時の短艇競漕の盛大さについては「学校生活座談会」の条で明治中期の先輩たちが交々語るところであり、こよなく盛大だったといってよかろう。

わが校の短艇競漕は、かの盛夏の夕べを彩る大川の天神祭とともに、いとも華やかな絵巻物を展開することとなった。明治から大正中期までこの賑やかな競漕は年々歳々繰り返され、当日は学校内の各級応援ばかりでなく、市中一流の大商店が選手を出すとともにそれぞれ応援を繰り出したのであるから、その旗指物吹流しなどの物々しさ、例えようもない盛況を呈したのであった。

(水上部報より―大正3年「新艇進水式記念第26回端艇競漕大会」)

欧州の天地今や戦雲急にして、東亜の一角また之が余雲に包まれ、山東半島には肉飛び骨砕け鮮血地に迸る軍国の秋に際し、本校第26回端艇競漕大会は秋水流れ静かなる淀江において開催せられたり。

9月27日午前8時、殷々たる号砲を合図として競漕は開始せられぬ。晴朗の朝、白雲鮮やかにその輪郭を青空に見せて絶好なる端艇日和となり、水の都の子女相携えて来たり観ずる者幾何なるかを知らず。

昨年の如く北岸控訴院前一帯に葭囲いを施し会場とす。一段高く設けられたるはこれを進水式場に宛て、本部招待席軍楽隊席を配置し、南岸銀水楼前には審判席新聞記者席を設け、公園前埋立地一帯を各商店会社応援団席本校学生席及び一般観覧席として各種売店此の間に介在し、各意匠を凝らして客足を止むるに勉め、渡川のためにモーターボートを浮かべたり。

混合競漕を終わるや新艇進水式は挙行せられぬ。新艇はアウトリガー式艇にて艇の長さ45呎幅3呎10寸なり。(中略)

さらに競漕の状況を見れば、渡辺橋を出発点となし控訴院前を決勝点と定め、一度一発の号砲発せんか臥龍昇天の勢いを以てとうとうたる水を遡り、熟練の名手櫂を握り精巧の指揮者艇尾にありて両艇の漕手各々秘術を尽くし、観者の応援百雷の如く、一漕丈余を進み一叫波を衝いて走る。

かくて大江橋を過ぐれば軍楽隊の吹奏となり、船に陸に打ち振る旗と応援の叫びは如何ばかり。漕者が勇を鼓舞し鉄腕に熱血を漲らしむるや、倐忽翻々たる色旗は審判席に掲げられ空を圧する爆然たる音と共に中空にひらめくは赤?青?白?勝負は如何に、数万の観衆視線を中天に注ぐ。あぁ壮ならずやあぁ快ならずや、誰かまたこれを壮観ならずと云う者あらん。

(4)ボート熱はなぜ冷めていったのか

このように世間を巻き込んで盛り上がっていたボート熱も、大正の終わり頃から次第に冷めていった。この辺りの事情を語る先人の言葉を資料から引用する。

 (大阪商科大学60年史第2章大阪商業学校より)

元々は堂島川で行われていた競漕会が、今日は上流の淀川公園付近となったが、大阪の地の産業発展に伴ひ年毎に堂島川の利用率が激しくなり、端艇競漕会の如きも大川を次第次第に上流に押しやられて行ったという感が深い。

競漕場が町の中心部から遠心的に遠ざかり行くに連れて、競技そのものに対する大阪市民の関心も昔日の熱意が見られなくなって来たことは誠にさびしい心地がする。

(同じく大阪商科大学60年史より)

こうしたお祭騒ぎもその中いつとは知らず過ぎ来し方の語り草となってしまったが、これには種々の原因を考えることができよう。

一体、明治の時代から大正の中期までは人々の血を沸き立たせる競技の種類も少なかった。その上、競技の方法が単純であった。

それでも人々の心にどことなく余裕があって、競技と競技の中間に長い間を置く種類のものでも悠然と落ち着き払って観賞し、最後の短時間の争闘を固唾を飲んで待ち構えた。

然るに、世界大戦の終末頃から人々は何かは知らずあせり気味となり、刻々と新しき刺激を要求する風が濃くなり、もはや端艇競漕を味わう余裕を喪失してしまった感がある。

その上、端艇の新造・保存には少なからぬ経費を必要とする。殊に新しい形式の競漕用端艇において甚だしい。以前は市内の一中等学校でも数艘の端艇を保有していたものがあった。ところが近年各種の競技が盛行するに連れて、最早昔日の如く端艇に専らになり得ない。

わが校は幸いに端艇界の進運につれて次々に施設して行ったが、他はこれに伴わぬ。競漕相手がなくなっては施す術がない。

端艇競漕の妙味は人々の心から薄れていく。

誠に力の及ばないものを感じさせられる。

(5)戦後第1回のボート祭

この冊子は明治から昭和初期までの本学ボート史に主眼をおいているので、この項はテーマから少し外れるが、戦争による3年間の休止の後、復活した学内大会のことに触れておきたい。

復活第1回の大会で優勝された卒業生の方からいただいた素晴らしい感想文があるので、そのまま転載させていただく。

『貴会発行の学友会報VOL.6を拝受いたしました。そして特に興味深く拝見したのは「120年目を迎えた市大ボート祭」の記事です。

戦後第1回目の学内競漕大会は、昭和21年6月2日に行われました。そして栄えある優勝の栄冠に輝いたのは「難関予科」の入学試験を突破したばかりの新米予科1年生でした。

恒藤恭学長の署名があります。「優勝 予科一年二組」優勝しても祝杯をあげるにもお酒はない。つまみもない。食料不足の当時のことなので、声を挙げて喜び勇むだけの祝勝会でありました。

が、1年2組の若者たちにとってはそれだけで充分であり、次に来る文化祭にもその団結力は充分に発揮されました』

これは 学部昭和27年卒 永井直三様 がお書きくださったものです。

  

<以上の歴史を経て今に至るボート祭>

第3部.ボート部の歴史―明治・大正から昭和初期まで

(1) ボート部の創設

第1部で述べたとおり、本学のボート部は明治22年にボート祭の始まりと期を同じくして水上部の名称で設立された事がほぼ確実である。

ボート部の創部に関する文書の記録はないが、幸いにも創立年を知る手掛かりとなる貴重な写真が現存している。 「ボート部員・明治22年頃、後列中央喜多又蔵氏」と注記の付いたユニフォーム姿7名の写真がそれである。

注・本第1部(2)に掲載

喜多氏は大阪市立商業学校明治26年卒で、後に経済界のリーダーとして活躍した大先輩である。

ただ、この注記は「ボート部員」となって居り、撮影当時であれば「水上部員」、少し後でも漕艇部員と書く筈である。 「頃」の字を挿入している事からしても後年に記入されたものと推測される。従ってこの写真だけでは創立年を確定する根拠とは言い難い。

一方、明治21年に学校が短艇を購入し、翌22年に水上運動会を開催するに当たっては、大会運営の母体となる組織が明治22年或いは前年に作られたと考えるのが妥当であろう。 また、せっかくの艇が大会の日以外眠っていたとは考え難い。

此れ等の点から推測すると、創部は明治22年と結論づけて良いかと思われる。

因に、平成7年発刊・紅橈27号所載の漕艇部年表には「明治23年漕艇部創設」と記載されているが、その後この写真の存在が判ったため、平成15年発刊の29号では「この貴重な写真に依って創立年を立証出来た」として,明治22年創設と認定している。

その後ボート部はどのように活動してきたのか。昭和5年にボート部の部誌「紅橈」が創刊され当時の復刻版が現存しているので、昭和5年にエイトが導入されて以降の記録はかなり整っているが、創立から大正末期までの間についてはボート部としての記録は全く存在しておらず、その頃のボート部はどのような活動をしていたのか、なにも判らないままであった。

したがって、本冊子を編纂するに当っては創立以来昭和初期までの歴史を重点的に調べることとし、大学史資料室に保存されている諸資料をすべて洗い直した結果、幸いにもかなりの史実が浮かび上がってきた。

(2)対外試合の記録

レースの記録は明治29年に初めて登場し、先ずは勝利の記録から始まる。

(市立大阪高等商業学校35年史より)

◇明治29年7月19・20日

琵琶湖において第2回全国連合競漕会に本校第1、第2、第3選手出漕し、第3選手は京都及び滋賀両商業学校に勝ち、第2選手は日本銀行及び混成部隊を破り、 第1選手は彦根中学及び京都中学両選手を挫きて大勝せり。

◇明治30年7月18日

琵琶湖における第3回大日本連合競争会に出漕したる本校第1選手は、滋賀師範学校及び文学寮を破りたり。

◇明治31年7月18日

琵琶湖における第4回大日本連合端艇競漕会において、出漕したる本校第1選手は京都同志社のために敗れたり。

◇明治31年11月19日  天覧試合に出漕

大元帥陛下忝なくも当市民の請願を充たし泉布観(造幣局)へ御臨幸あらせ給い、本市の催しにかかわる学生並びに有志倶楽部員の端艇競漕を叡覧給う。

この日、我が校生徒もまた出漕の栄を得て三艇競漕し、その優勝者に大阪市より

金牌を与え、且つ記念旗を本校に贈りたり。

(大阪商科大学60年史/大阪商業学校の項にも同様の記事がある)

◇明治32年8月6日

第5回大日本連合端艇競漕会に出漕したる本校第1選手は、真宗中学神戸商業学校のために敗れたり。優勝同志社大学。

(明治40年:詳細は不明だが、短艇大阪商大レガッタ・チャンピオン記念写真が有る。)

<“短艇協議会記念1907年”(明治40年)のスタンプと、CHAMPIONS OF THE OSAKA CITY COMMERCIAL SCHOOL, REGATTA 1907 の文字が見えます>

(この後しばらくの間レースの記録が残っていず、大正2年発行の桃皋3号に下記の記事がある)

◇塩屋における我が部の活動

大正2年5月24日出発  安治川を下り塩屋に向かう。

5月25日 神戸商業学校端艇大会に出漕 御影師範第1選手に2艇身差にて勝つ。 5月27日~31日 現地にて練習

6月1日  神戸新聞社主催・関西連合端艇競漕会 (於 播州塩屋)

(出漕)大阪高商 神戸高商 御影師範 関西学院 神戸商業 鉄道院 八幡商業山下汽船 隼倶楽部

1回戦  1着本校  2着神戸高商  3着八幡商業

神戸高商は4月京大カップレースで湖上の王者三高を破り意気

天を衝く。三高は今回不参なれど、実に関西斯界の争覇戦たり。

2回戦  対神戸高商灘友団 大差勝ち

準決勝 対御影師範第1 1艇身勝ち決勝  対御影師範第2本校は準決勝終了直後で甚だしく不利であったが、審判団協議裁定の結果30分後レースと決定。半艇身差負けとなる。

第1選手敗れ第2選手勝つの珍現象は且て聞かざるところなり。

<大正9年の端艇競漕会風景>

◇大正14年 シェルフォアで当時大きな大会であった明治神宮レースに出場

これがシェル艇での初の試合であるが詳細な記録は残っていない。

(以下、昭和5年~8年の記録はすべて紅橈1号~5号より)

◇昭和5年  この年、本学は固定席艇から転換してエイト主体に踏み切った。

◇夕刊大阪新聞社主催 関西大学専門学校優勝レース (堂島川)

フォア  決勝で京大を破り優勝

エイト  (出場)関大 三高 大商大 記念すべき初のレースは関大に破れた

◇尾久レガッタ(東京) エイト 1000M

対東京帝大専門部  接触、没収レース

対東京帝大法科   3艇身勝ち

◇大日本漕艇協会主催 関西選手権競漕大会(瀬田) エイト 2000M

(出場)関大 工大 三高 同志社高商 龍谷大 大商大

決勝まで勝ち進み、関大と対戦。  夕闇と豪雨の中、網定前のカーブで我が艇がフラッグに触れ外に流れた。再び立て直し、結局3分の2艇身差をつけてゴール。審判長は大商大の勝利を告げたが関大側から「商大コースアウト」と抗議があり、審判長は判定を下し得ず双方の申立を求め、我が方は自らコースアウトを認めた。これを受けて審判長は規定により関大優勝の裁定を下した。

昭和6年

◇尾久レガッタ

エイト 1000M

対東京商大専門部

オール接触あり 1艇身2分の1負け

対一高      2艇身2分の1負け

◇関西選手権競漕大会〔瀬田〕エイト 2000M

1回戦 対日本大学

10艇身以上の大差勝ち

2回戦 対京都帝大

3艇身2分の1負け

同シェルフォア一般の部にOBを混じえ紅橈会として出場

出場6艇 1回戦京医大 準決勝同志社大 決勝龍谷大を破り優勝

昭和7年

◇関西選手権大会(瀬田)  エイト 2000M

1回戦  独漕

2回戦 対神戸商大 3艇身勝ち

準決勝 対京都帝大 3分の1艇身勝ち

決勝  対関大    2艇身勝ちエイト転向3年目で悲願の初優勝を成し遂げた。

◇全日本選手権大会(瀬田) エイト 2000M

1回戦 対東北帝大   1艇身2分の1負け、関西選手権優勝の勢いをもって全日本に臨んだが東北帝大になすすべなく敗れた。

昭和8年

◇関西選手権大会(瀬田)  エイト 2000M

1回戦 対彦根高商  勝ち 艇差不明

準決勝 対関大     1艇身負け

◇対関大4哩4分の1(7000M)レース(新淀川)

練習の一環として長距離レースを行うことを提案、賛成を得て開催した。

大商大 22分21秒 2分の1艇身勝ち

関大は新淀川に艇庫があって長距離の練習を積んでおり、当方は未経験の

7000Mであったが、激戦の末、半艇身差で勝利を収めた。

昭和9年(1934年)以降については、「紅橈」6号~12号が復刻できていないため定かな記録がない。

また、昭和30年以降については昭和33年に発刊を再開した「紅橈」第13号以下の各号に記録されているので参照願うこととして、本冊子では省略させていただく。

<数多い昭和年代の漕艇に関する写真資料の一部>

尚、シェル艇に転向後のレース記録やメンバーの動向等については、木村勤氏が今回発刊予定の「紅橈」に大阪市立大学ボート部人国記と題して執筆しておられるのでお読み願いたい。

(3)活躍を伝える当時の記事から

ボート部の活躍を伝える記事の一端を紹介する。

(大正4年発行桃皋第6号 創立35周年特集より)

「座談会 回顧35年・古き我が校」

端艇競漕は22年から始まって確か2年後に初めて軍楽隊を雇った。

(水上部艇は)進藤氏が舵手で村田、瀬間氏等が乗っていた。米穀取引所が決勝点であった。時には師範学校には端艇部があったがそれには高を括っていたが、水上警察が商売柄強かろうと大いに警戒していた。

ところが、さて競漕となって見事に両者を破った。水上警察を倒したというので、関西一などと云い出して端艇は大いにはずみ出した。中には調子に乗って堺迄へも漕ぎ出した者があったので、学校から2ヶ月ほど端艇乗用停止を申し渡された。

(明治26年卒 村井忠三郎氏談)

端艇と英語会は何といっても我が校の歴史に特筆すべきものである。

その時分には学校は知られずとも端艇だけは知られていた。中学校はまだやっていなかったから、端艇と商業学校はほとんど付き物であった。

端艇といっても今見るような軽快なものではなくて、幅の広い二列に並んで漕ぐやうなのを、呑気そうに木津川辺りを漕ぎ廻っていたのである。(中略)

ボートには強制的に乗せられた。即ち、何時何処に集まれと命ぜられて、誰々某々と名前を呼ばれてボートに乗るのであった。

後には対級競漕が出来てようやく各級の団結も固くなり、同級会もボツボツ設立せられるに到った。(中略)

ボートは自称関西一であった。ところが各新聞にも日頃の練習振りなどを書きたてられるので、当日の覇者たるを予期して初めて琵琶の湖上にその技を競ったときには、哀れ惨々な敗北をやった。

同志社や本願寺の大学寮が時の猛者であった。競漕終わって大津の駅へ来ると、勝者の各学校生徒で押し合いへし合っている。我が校生徒は恨みを呑んで坂本から比叡山を越え京都を経て帰った。

かくて翌年、必死の覚悟をもって琵琶湖遠征に上がった。

此の度は一年間の練磨の功があったのか、決勝点に第一番に漕ぎ入れたのが我が選手の乗る端艇であった。

それからは年々何でも私が卒業してから1~2年後迄も、常に琵琶湖の覇者たるの名誉を担っていたのである。

(明治29年卒 田中吉太郎氏談)

 

(明治40年発行 市立大阪高等商業学校校友会誌・商海第22号より)

「関西端艇界の覇王」

我が校の水上部が浪華に花たるは人の既に熟知せるところ。唯、野に出でんに好敵手なく、髀肉の嘆もここに年を経る久し。

時はよし9月22日、大阪新報主催の築港西宮間五哩の競漕は我が敵として神戸高商と定まりぬ。彼は関西運動界の豪者を以て自任する者。当初我が腕試しの序開としては吾人に多少の杞憂なかりしに非ず。

然れども選手連は深く思うところあるが如く、大阪湾頭真紅の英姿は颯爽として徐に六甲嵐に長嘯すれば、艇首は浪の穂を衝き潮の花を押し切り、58分にして優に十有余艇身の大勝を占む。

吾人は勝負に勝ちて誇るものに非ず。然れども年来意気地なしと嘲侮し続けられし大阪人士のプライドを如何せん。さては猛虎雲霓に嘯きて地上敵なきの恨みを如何。

吾人は水上部選手諸子の労を感謝するとともに、直ちに兜の緒を緊むるに怠らざらんことを希望す。(商海子 記)

「遠漕の記録」

(明治41年発行 商海第27号より)

◇前年(明治40年) 水上部は大阪湾一周を行いたり。

◇明治41年7月27日より8月25日 水上部は日本地中海漕周を成し遂げたり。

順路は次の通り

大阪 → 高砂 → 下津井 → 尾道 → 新居浜 → 川之江 → 仁尾 → 粟島 → 多度津 → 高松 → 小豆島 → 牛窓 → 新浜 → 明石→ 御影 → 安治川 → 帰着

註 当時は遠漕が盛んで関東でも琵琶湖でもよく行われていたが、この瀬戸内海遠漕はその中でも特筆すべき壮挙だったと思われる。詳細な記録が残っておらず残念である。

シェルエイト主体に移行した後も基本練習のために固定席艇は重要視されており、遠漕も行われていた。昭和7年大阪湾一周の記録が「紅橈」に詳しく書かれているので、以下に要点を転載する。

(紅橈第4号より)

◇昭和7年7月13日~16日  乗り組み12名 使用艇フィックス木の花

準備品  手製の帆3枚及び支柱、オールのスペア2本握り飯、その他食糧、砂糖水etc

順路   桜ノ宮艇庫→土佐堀川→天保山→神戸沖→舞子→岩屋→洲本→淡の輪→岸和田→浜寺→木津川尻→大正橋→道頓堀→東横堀→艇庫

6人漕ぎ固定席艇に交替要員を含めて12名が乗り組んで漕航している。

「天覧競漕会」

(大阪商科大学60年史より)

昭和4年6月4日 天皇御召艦大阪湾入港に際し天覧端艇競漕

御召艦大阪湾入港。本学漕艇選手は4端艇に分乗、府下専門学校以上の学生生徒の水上奉迎団に参加し、全19艇の先頭をつとめた。

『午前5時30分乗艇。第1第2司令艇に導かれて所定の位置につき、絶えずオールを操縦して潮流に逆航し、もって艇列を整う。

やがて御召艦灘風の進御とともに最敬礼を行ひ、陛下大桟橋に着御あらせられる。更に御召ランチつる丸の通御を待ち奉る。

しばらくして、つる丸は天皇旗を翻しつつ大桟橋を西に迂回し、安治川を遡り住友伸銅所に向かはせらるるや艇隊は再び最敬礼を行ひ、御召ランチが隊の先頭たる本学第1号艇に並行したる頃、第2司令艇の合図とともに全艇隊は茲に力漕を開始したるなり。

この無上の光栄に感激したる各艇はいずれも青春の元気を漲らしつつ、1分時32ないし34のロングピッチを以て御召艦と約50米の間隙を保ちつつ、1千米内外を進航したり。

しかして天保山趾付近においては、本学第1号艇は恐れ多くも御召艦ランチより前進すること若干米なりしを以て、司令の命により一時速力を緩和せしめたりと云う。力漕中、畏くも陛下には艇隊に対し御会釈を賜はる。一同感泣せり。

かくて特設せる浮標付近において力漕を止め、御召ランチの進御を目送し奉り、各艇をそれぞれの浮標に繋留し謹みて還御を待ち奉れり。

住友伸銅所御巡覧の後、御召ランチつる丸にて大桟橋に向かはせらるるを奉迎し、茲に第3回の最敬礼を行ひ、全艇隊首尾好くその重大なる責任を果たし、司令艇に導かれつつ天保山趾下の繋留所に帰着し、満歳を三唱して無事解散せり。時に午前11時なりき。

<展覧試合かは不明だが昭和初期のアルバムより>

<往時のアルバムには必ず、ボート祭のページが有り、端艇部が常に部活紹介の最初にあった>

(掲載例:上)

(4)新艇建造の記録

新艇の建造は明治21年のバッテーラ艇から始まっている。以降、資料が残っているものについて記録とそれにまつわる話を年代を追って記しておく。

最初のバッテーラ艇の建造費は学校自体が支出しているが、明治32年に校友会が設立された後は校友会が負担している。

明治21年7月  バッテーラ艇3艘購入  購入者 府立大阪商業学校詳細は第1部(1)「バッテーラ艇の購入」を参照のこと

(市立大阪高等商業学校35年史より)

明治26年11月5日 新艇3艘成る。「なにはつ」「さくや」「このはな」と命名せり。

この日、堂島川田蓑橋上流において進水式に引き続き第5回短艇競漕会を催せり。

明治33年5月10日

土佐堀川難波橋下流において新造短艇3隻の進水式。畏くも皇太子、皇太子妃両殿下の御歌の御詞に因み、「こすえ」「いはね」「はつせ」と命名せられたり。

明治39年5月15日

本校校友会と市と共同にて新造したる短艇3隻の進水式を堂島川渡辺橋上流南岸にて挙行せり。 艇は校長の命名により「浪速津」「咲也」「此花」の旧名を踏襲せり。

(大正2年発桃皋3号 水上部報より)

京大式の

なる艇庫は将に計画せられ、アウトリッガーの新艇3隻の新造本年内。期して待て、我等が今後の活躍を。

(市立大阪高等商業学校35年史より)

大正3年2月     新艇庫建設

所在地 西区二条通3丁目 旧燈台東方濱地

註 ここで艇庫の歴史に少し触れておきたい。

明治42年7月堂島校舎全焼の際、敷地内にあった初代艇庫も焼失し、その後仮住まいだったと思われるが定かではない。そして大正3年この艇庫が新築された。

その後、往来する船の増加やシェルエイトへの移行に伴い固定席時代の艇庫では収容しにくい、などの問題が生じて昭和6年桜ノ宮に移転し艇庫を建築。この艇庫も50年の歳月を経て老朽化のため昭和56年に取り壊され、新艇庫が建設された。しかしその後の部員数の大幅な増加と艇の収容場所の不足によって部活動やボート祭に支障を来たすようになり、平成7年、床面積を従来より約40%増した現艇庫が竣工し、今日に至っている。

(大正4年発行桃皋6号 水上部報より) 

大正3年9月27日  新艇進水式記念第26回端艇競漕大会

(中略)

混合競漕を終わるや新艇進水式は挙行せられぬ。新艇はアウトリッガー式艇にして、艇の長さ45呎 幅3呎10寸なり。

註 1呎=1フィート=30.48センチ

式場の前面岸に繋がれしはこれ「なにはつ」「さくや」「このはな」の新艇にして、乗り組めるは各級選手なり。

式は始まりぬ。悠々たる流れに対して会長の祝辞あり、続いて部長の祝辞より最後の幹事長総代答辞を終るに及び、嚠喨たる第4師団軍楽隊の奏楽と共に、3年、2年、1年の順序に従い勇ましく漕ぎ出し式はこれにて閉じらる。

 (大阪商科大学60年史「学友会の項」より)

 端艇は39年さらに3艘新調し、校長の命名で「浪速津」「咲也」「此花」の旧名を襲うこととし、5月15日進水式を盛大に営んだ。

この頃学校に都合幾艘あったのかその数を明らかにし得ないが、これより前33年5月10日、皇太子殿下御慶事奉祝の記念すべき日に進水した新造艇3隻には畏くも両殿下の御歌の御詞に因んで「こずえ」「いはね」「はつせ」と命名せられたが、それが尚現役としてあり、更にその前に26年進水の旧の「なにはつ」「さくや」「このはな」も使用されていた筈だ。

因みに、この年即ち39年1月11日の校友会総会において、この度進水の端艇新造の件を議決するとともに、会費2円を3円に値上げする件を可決している。

(5)学内に五つのボート倶楽部が存在した時代

明治20年代後半から30年代にかけては、学内に幾つものボート倶楽部が存在するという、今では考えられないような時代があった。盛況だったには違いないが、資料でみる限り、どうもプラス面とマイナス面の両方があったように思われる。

(大阪商科大学60年史より)

その頃学校内にはInvincible Boating ClubとVictor Boating Clubとが対立して争っていた所へ、やがてまたVolunteerというのが出来て三つ巴となり、さらにUnionとBrandという二つが加わり、結局、我が校内に五つのボート倶楽部が対立して互いに覇を争うことになったのだから、騒がしくもあり、又こよなく盛大だったと言ってよろしかろう。

 (大阪商科大学60年史第2章大阪商業学校「学校生活座談会」昭和15年8月15日開催より)

  明治の後期、学内には五つのボート倶楽部があった。名前を挙げると Volunteer  Invincible  Victor  Union  Brand であり、それぞれ名前の後ろBoating Clubと付けていた。

  Invincibleが最初にできた倶楽部で金持ち階級の人が多く,社交的要素もあった。

 これに対抗してできたのがVictor Boating Clubで、蕃的な連中が多かった。

 この二つが威張っていて、そのどちらかに所属しなければ対外選手にはなれない。これに反抗していたのがVolunteerで、野性味があり元気な会だった。

 その次にUnion Boating ClubとBrandが加わり、Brandは九州出身者が主だった。

 Brandのメンバーは 大原清 西澤徳一郎 中西萬蔵 丸岡熊太郎 大槻三郎 副島綱雄 ほかである。

明治43年には、ボートレースが原因で学内流血事件が起きている。

(大正4年発行桃皋第6号 座談会「回顧35年古き我が校」より)

 ボートが盛んになってくると3艘位では足らぬ。そして終に多くの端艇倶楽部が設立されて端艇が作られた。

 即ち、インヴインシブル、ブランド、ヴイクター、ユニオン等の各ボーティングクラブであった。

ところが、このヴィクター即ち漕勝端艇倶楽部が或る感情の行き違いから分裂を来たして、凌波倶楽部の設立となった。

 そこでこの両倶楽部の暗闘が惹起され益々助長された。そしてこの両倶楽部の人々で卒業後の今でさえ尚言葉を交わさない人がある。以てその一端を知るべきである。

 が、凌波の方は敵乍らもその政策が巧みであった。即ち、彼らは新入学生を盛んに入会せしめた。中には、私立商業辺りにいる時分から入会を約した者がある。

新入生もやがて上級生になるからである。

 ある時、我等はインヴィンシブルと同盟して凌波に当ろうというので、知れては不可ないから君は陸からこちらはボートで海からと、住吉で相談会を開いたこともあった。

 今も漕勝倶楽部の記録が残っているから、見れば我が古き倶楽部の消長を知り得るであろう。 (明治30年卒業椎名芳胤氏談)

(6)固定席艇からスライディング式シェル艇へ

第3部―(1)で触れたように、わがボート部は市立大阪高等商業時代の大正14年に初めてシェルフォア艇のレース(明治神宮大会)に出漕。その後、昭和5年固定席艇に訣別してエイト主体に転換し、新しい一歩を踏み出した。

わが校の滑席シェル艇への転換は、他校と較べるとかなり遅いほうであった。

シェル艇の歴史を見ると次のような記録例がある。(日本ボート協会ホームページより)

明治44年 東京帝大が初めて滑席シェル艇(6人漕ぎ)2隻を英国で建造

大正 8年 東京帝大がシェル艇による学科対抗戦を開催

東京帝大・早稲田大がシェル艇による対抗戦を開催

大正 9年 東京帝大・京都帝大が瀬田川で日本初のエイトによる

レガッタを開催

このように他校から少々遅れてエイトに踏み切ったものの、未だ自艇はなく借艇に依存する有様であったが、幸いなことに指導陣にはすこぶる恵まれていた。

エイト移行初期のコーチ陣は  岡本信彦氏(通称メーヤン) OB 大正5年卒、内山孝和氏  東京帝大OB、木村二郎氏<同上>と、そうそうたるメンバーであった。

岡本氏はボート一筋で有名なOB。内山氏と木村氏はともに若手の東大OBで、一世を風靡した漕法「チビヤン・メトーデ」の創始者、千葉四郎氏の直弟子である。

当時の「紅橈」を読むと、熱意溢れしかも当を得た指導ぶりが伝わってくる。

この頃の大学首脳陣がまた素晴らしい。武田千代三郎先生

<当時の校長:武田千代三郎先生>

 

大正7年校長事務取扱として着任し大正11年校長就任。昭和3年まで通算10年半にわたって校長職を務められた。 当校着任前に県知事を幾つも歴任された大物であるが、東京帝大端艇部OBで「世にも稀なるボート狂」と謳われた人である。着任早々から水上部(ボート部)部長として自ら指導に当られ、大正11年部長を大国先生に引き継がれた。校庭にボート練習用の器具を備えたプールを作り、自ら漕がれたという。

武田校長の時期はエイトにはまだ少し早く、固定席艇からスライディング艇への移行期であったが、先生のご尽力によって大正9年にクリンカーフォアが新造され、これがスライディング艇へ、さらにエイトへと転換していく基礎となった。

そしてその後を継いで19年間部長をされた大国壽吉教授。先生は京都帝大ボート部の出身。この方も漕艇通として広く知られた方であり、フイックスからシェル艇へ、さらにエイトへと移行期のわが部を強化発展させた功労者として、忘れてはならない恩人である。

ボート部が悲願の自艇を持つことができたのは昭和7年。そしてこの年、わがボート部は関西選手権優勝の栄冠を得たのである。

エイト草創期のわがボート部は確かに強豪と呼ばれるに相応しい力を持っており、スタート早々に作り上げた黄金時代であった。

初期の「紅橈」を読むと、シェル艇に転向したばかりの意欲に燃える当時の先輩たちがどれほど熱心に漕法の研究に打ち込んだか、また、幸いにも素晴らしい指導者の元で練習を積み重ねて体得していったか、その様子がよく理解できる。

(昭和5年発行 紅橈第1号より)

「紅橈」発刊に当って  (昭和5年度幹事長 渡邊奇雄)

今回我々はエイトに乗り出したが悲しいことに未だ一つの競艇だに有しない。借艇によって関西選手権では敵をどたん場まで追い詰め乍ら栄冠を得る事が出来なかった。(註 決勝でコースアウトを自ら申告し優勝を逃したレースを指す)

けれども我々は更に更に貴い収穫を得た。それは即ち、オアズマンスピリットである。 今や我々は従来の旧殻をすっかり脱ぎ去って了った。

(完)

参考資料

市立大阪高等商業学校一覧        明治37年刊

市立大阪高等商業学校三十五年史   大正  4年刊

大阪商科大学六十年史            昭和19年刊

大阪市立大学の百年            昭和55年刊

水上運動会番組表 第10回 第11回 第12回 第15回 第48回

註 これ以外は現存していない。

商海 (市立大阪高等商業学校校友会会誌) 第20号~22号、25号、第27号~35号、79号~83号

註 校友会は明治32年4月、それ迄あった諸種の会を統一して職員・生徒よりなる組織として設立された。これ以外の各号は現存していない。

桃皋 (桃皋会会誌) 第2号、第3号、第6号

註 大正改元に際して校友会と同窓会を合同して桃皋会が設立され、会誌を 「桃皋」と命名して発行した。しかし大正6年に再び卒業生の団体=同窓会と在学生の校友会とは別々の組織に戻り、「桃皋」は6号限りで廃刊された。なお、第3号、第6号以外は現存していない。また、「商海」は復刊されていない。

紅橈 (ボート部・部誌) 創刊号、第2号、第3号,第4号、第5号

紅橈以外の文書資料はすべて本学大学史資料室に保存されているものに拠った

写真は江戸川大学・古城康夫先生にご提供頂いた先生ご所蔵の写真と、本学の大学資料室所蔵の写真を合わせて掲載した。