大阪市立大学ボート部人国誌

大阪市立大学ボート部人国記

ボート部は、創部明治23年(1890年)で、今年で創部124年を迎えます。平成25年末でOB・OG組織「紅橈会」は在籍会員数550名、現役学生数93名を擁する大阪市大体育会最大の倶楽部です。

大阪市立商業学校に改称した1889年中ノ島堂島川で第1回水上運動会(現ボート祭)が開催されその翌年1890年に水上部(漕艇部、現ボート部)が創設されました。

[大阪市立大学の百年(1980年発行)]史に創部の頃、ボート部員の写真が残されています、写っている喜多又蔵が第1期生で、M27年(1894年)に市立大阪商業学校を卒業し、日本綿花(後の総合商社ニチメン、現双日)に入社、41才で社長に就任し関西財界ナポレオンと称された。S7年(1932年)享年56才で逝去した。

その後の水上運動会(現ボート祭)は[大阪商科大学六十年史](昭和19年発刊)、[大阪市立大学の百年]や[有恒会百年史]に開催記録が残されていますが創部の明治から大正末期までの戦績、部員の活躍内容の記録は殆どありません。詳しくは(別稿:河崎清氏(昭和29年卒)の“大阪市立大学ボート史―短艇競漕の発祥から明治・大正・昭和初期までー”を参照にしてください。)

大正14年にシエルフォアで当時大きな大会であった明治神宮レース(東京)に出場これがシェル艇の初の試合です、選手はコックス中倉俊夫、ストローク岡本専蔵、3番杉本良吉、2番中野弥太郎、バウ南里勇で補欠として福島隆輔が出場。岡本はT15年卒京都市岡仙商店S60年死去、杉本もT15年卒㈱松北園茶店社長H6年没、中倉S2年卒は住友銀行役員から商社伊藤万副社長にS55年没、S2年卒中野弥太郎は広栄化学工業㈱取締役、S3年卒南里は札幌市の大丸藤井㈱の会長でH25年4月に北海道内男子最高齢108歳で亡くなるまでボートを愛しボート部に支援の寄付を続けられた。S2年卒福島(新井製作所常務)は平成元年発行の[紅橈]26号に“ボートの思い出”の寄稿で乗艇したクルー名が判った、H9年亡くなられた。[紅橈23号]岡本専蔵“私のボート時代”参照。

昭和初期から戦前まで、

大阪市大ボート部が関西の強豪へ、全国試合出場へ発展する時期です。これには三つのポイントがあります。

Ⅰ)武田校長と大国教授の存在

Ⅱ)S5年シエルエイトの導入

Ⅲ)S5年部誌[紅橈]の創刊です。

(注:当校の出身ではありませんが、初代水上部部長武田千代三郎校長と次の部長大国寿吉教授を外す事はできません。)

武田千代三郎先生:福岡県柳川の出身、東京帝国大学法科卒で秋田県、山梨県、青森県の各県知事を歴任した大物であった。大正5年、水上部(現ボート部)部長、H7年校長事務取扱H11年に大阪市立高等商業学校校長就任S3年6月まで6年半務めた。東大在学中はボート部(端艇部)の選手として鳴らした経歴をもち、特にケンブリッジ・オクスフォードのオァーズマンシップに強い感動を受けられてからは文字通りの[ボート狂]で[四つとせ 世にも稀なるボート狂然も位は従三位]とうたわれ、我がボート部のシェル艇の導入に大きな影響を与えた。

武田先生について詳しくは[大阪商科大学60年史]、[大阪市立大学の百年]、[紅橈16号]佐野収T12年卒[武田校長の思い出等][紅橈17号]岡本専蔵T15年卒[武田校長と学校選手論]を参照に。

大国寿吉:京都帝国大学ボート部で活躍し卒業後大阪商船㈱入社,T6年オーストラリアシドニーに在任時もモスマン漕艇部員でした。大正10年に大阪市立高等商業学校教授に就任。和服に袴姿の授業で有名だった。

大正11年(1922年)から昭和16年(1941年)まで19年間水上部(現ボート部)部長を歴任。部長就任後武田校長と共に連戦連敗だった高商ボート部を関西で勝てるボート部に再生に乗りだした。戦後S22年(1947年)再刊した[紅橈12号]に大国先生自身が“紅橈復活を祝して”で詳しく述べておられます。

Ⅱ)①昭和5年エイトで関西選手権出場、初戦で決勝進出

②昭和6年関西選手権選抜シエルフォアで紅橈会クルー優勝

③昭和7年関西選手権シエルエイト優勝

(①について関大創部70年誌P46に大国先生の詳しい説明が有る)

①はS5年(1930年)9月14日開催の大日本漕艇協会関西選手権大会:瀬田コース2,000m:参加校、関大・工大(現阪大)・三高(京大)・同志社高商・龍谷大・大阪商大の六校で我校と関大の決勝戦となり3分の2艇身差で先にゴール、判定長は我校に優勝を報じたが関大側の抗議でコース侵害と判定され優勝を逸した。

クルーメンバーはコックス田畑春三郎(高商3)整調高井宗雄(高商2)7番熊谷勇(高商3)6番伊勢田貫一(関口)(高商3)5番植木雅雄(予2)4番酒井勇(高商3)3番安本宣雄(高商2)2番吉井武造(高商2)バウ大橋秀雄(高商2)で熊谷勇がエイト初代キャプテンです。

②はS6年(1931年)10月25日瀬田コース2,000m・関西選手権:京都医大、同志社大、龍谷大を破り優勝。クルーはOB・現役の混成で紅橈会クルーとして出漕:メンバーはコックス西村好夫(高商3)S高井宗雄(高商3)3番熊谷勇(OB)2番酒井勇(OB)B大橋秀雄(高商3)、優勝して関西代表となり同年11月3日明治節に隅田川で[神宮競技]としての日本選手権試合に出漕、北海道代表に惜敗、この競技は翌年1932年のロスアンジェルスオリンピック日本代表の選考試合であった。

③S7年(1932年)9月17,18日瀬田コース2,000m・関西選手権エイト:第一回戦独漕、第二回戦神戸商大、第三回戦京都帝大、優勝戦は往年の覇者関西大に8秒差をつけて勝利する。試験のため日本選手権には出漕不能。

クルーメンバー:バウ増井利雄(学部3)2番安部周蔵(高商1)3番出水春男(高商2)4番主将前田安松(学部1)5番糸岡康博(学部3)6番井口知一(高商2)7番森正一(高商3)整調樋口邦三(高商3)コックス栗田武雄(2)

Ⅲ)[紅橈]の創刊号はS5年従来のフィックスからエイトに乗り出した時に発刊されたものです。その頃は創部41年になるにも拘わらず長年月、競技、試合、成績を示す文献がない状態でした。当時のクルーが空前の記録を残したときであり、エイトを導入したのを機に今後ボート部の歴史と記録を次の世代に残す為に、当時現役であった熊谷、関口、酒井の先輩達が[紅橈]の発刊を企画し出来上がったのが創刊号です。そして八本のオールの紅いブレードを意味すると共に部の[向上]を祈念して[紅橈]と名づけられました。創刊号の巻頭に寄せられた前記大国教授の一文をここに引用して[紅橈]の持つ使命と意義を改めて認識したいと思います。『我漕艇部が年々の出来事を後々に書き残す為として[紅橈]を編する事となった。これは勿論広く世間に公にするものではなく、唯、部員と部の先輩(卒業生の極めて少数)等に頒つのみで、その範囲は極めて狭い、因って今より十年或いは二十年の後には誰の手にも保存せられないやうになるやら計られぬ。 海外の漕艇界を見るにやはり記録の保存せらるることなく、後年に至って大骨折りしている。それで近年は各国とも些細な事でもこれを印行して保存を計っている。我が国でも中々昔のことは分からぬ。これを公にしたもの亦誠に少ない。我が漕艇部の歴史は誠に古い。古いだけそれだけ分からぬ。過去は致し方ないとして、今後[紅橈]の将来の継続と発達を祈っている。頒布を受けた人は失わぬ様に大切に保存せられんことを望む』

この時代に活躍した方々すべてを記述は無理ですができるだけ紹介します、先ずは

熊谷勇(通称熊さん):M44年(1911年)鳥取県鹿野町に生まれ、県立鳥取一中(現鳥取西高)からS3年(1928年)大阪高商学に入学。S3年は大阪市立高等商業学校が大阪商科大学に昇格改編された年です。S5年(1930年)初代エイトキャプテンで“ボートの華”と言われたエイト艇が初めて採用された年です。その折指導を仰いたのが、東京帝大ボート部OB千葉四郎氏の主唱による新漕法―チビアンメトーデーの理論の導入と実践に心血を注がれました。その導入の結果上記のS5年の関西選手権レースの関西大との決勝戦、卒業後に現役と組んでの紅橈会の名での関西選手権シエルフォア優勝、コーチとしてのS7年の関西選手権シエルエイト優勝となった。戦後の混乱期に事業経営(東亜繊維工業株式会社社長)専念された一時期を除き,S24年(1949年)からS38年(1963年)まで再三コーチ、監督に就任した。その後も物心両面で多大な貢献をした、特にS60年(1985年)、H1年(1989年)の2回にわたる貴重な資料の散逸が心配された[紅橈]の創刊号から第5号までの[復刻第1号]S22年~S37年の[復刻第3号]S38年~S47年の[復刻第4号]S50年~S59年の[復刻第5号]まで多額の費用を全額負担した。また、1995年の新艇庫建設の際に多額の私財の提供、ボート部・紅橈会の財務基盤安定の[熊谷記念基金]設立等貢献。熊谷は[紅橈]創刊号から27号までボート部にとって貴重な技術論、漕法、練習方法、観戦記、思い出等多くの遺稿を残しています。平成14年(2002年)享年91歳をもって逝去された。

関口貫一(通称お関さん)(旧姓伊勢田):明治43年(1910年)姫路市の裕福な農家伊勢田家に生まれ、姫路中学から昭和3年(1928年)大阪商科大学高等商学部に入学、最初相撲部に入り浜寺の全国高等大会を目指したが2学期よりボート部に入部、S6年(1931年)高商部卒。S7年から50年間当ボート部のコーチ、監督、紅橈会会長として援助、指導、強化に熱意を注いだ。それだけでなく、漕艇界に対しS21年大阪漕艇協会、関西漕艇連盟設立の発起人に、S23年には朝日レガッタ設立に参画、彼が卒業後1年半程北鮮清津で過した縁故からかS45年~S50年まで韓国漕艇協会技術顧問になり同協会育ての親となった。後年大阪商工会議所の中小企業労務相談所長としても面目を発揮し共に任務を全うした。S60年(1985年)8月享年75歳で病死された。

酒井勇:愛媛県宇和島中学出身で中学時からのボートマン。S3年(1928年)高商入学、ボート部に入部、S5年第1回エイトの熊谷、関口と共に中核で商大漕法の探求者、S5年(1930年)[紅橈創刊号]発刊に関り編輯後記を記述し、紅橈創刊号~第6号で各種の記事を投稿しています。残念ながらS12年(1937年)から始まった支那事変に従軍し若くして惜しくも戦死。

前田安松:大阪桃山中学卒、S4年高商部入学、ラグビー部に入部するが乾質性肋膜炎に倒れ退部し、約1年半後S6年回復しその後ボート部に入部し半年間体力強化、S7年(1932年)主将として上記関西選手権に出漕して、エイトで優勝。S10年(1935年)学部卒。S12年コーチとして後輩指導する。兵役を経て高田工機に入社し専務を務める。

原田春海(旧姓出口)洲本中学卒、S8年高商部入学しS10年卒後丸紅京都支店に勤務、S13年~S21年夏まで8年間の軍務で中支従軍、内地に帰還後は郷里の洲本で家業(釦製造業)原田商店を経営されながら地元洲本市漕艇界に尽くされる。S22年旧制洲本中学の端艇部を復活し漕法指導、S40年頃まで洲本高校、柳学園ボート部を指導した。

この頃、昭和12年(1937年)には盧溝橋事件をきっかけに日清戦争が始まり、S14年には欧州で第2次世界大戦が起こり、S16年12月真珠湾攻撃と太平洋戦争と進んでいきます。

S14年発刊の[紅橈9号]には熊谷勇、前田安松、高井宗雄、原田春海、安部良平ら23名の出征や入兵が記載されています。

戦前最後の関西選手権優勝はS14年9月です。[紅橈10号]に主将應矢光平の出漕記があります。クルーメンバーはコックス前川福夫(20才)整調応矢光平(25才)7番応矢有行(21才)6番近江喜作(23才)5番田中泰一郎(19才)4番北村禎二(20才)3番谷村礼三(25才)2番松田明(21才)バウ好岡知一(20才)です。前川は川島屋、応矢光は満州の鉱山、応矢有は岸本商店、近江は大阪鉄工所、田中は丸紅飯田、北村は日本鉱業、谷村は三井物産、松田は日立製作所・松竹、好岡はS20年2月中支で戦死。このクルーは関西代表として瀬田川での全日本選手権に出漕も東京商大(現一橋大)に3艇身差で敗退した。戦況は進み昭和18年には漕艇部の活動は中止となった。

S18年、学徒出陣まで戦時中、最後のボート部員であった浜田、伊藤、佐藤、長谷川らが終戦後、戦場から復員、S21年5月に再び学窓に戻ってボート部再建に情熱を注ぎ、6月2日に戦後初めて第54回学内レースが再会された。そのころのボート部のメンバーは次の人達です。

学部:伊藤泰三、佐藤由夫、長谷川碩弥、浜田佳夫、杉浦堅一、梶村秀成

予科:薩摩嘉弘、岡崎恒雄、岩田文一郎、岸原俊一、岸本一夫、川下福之助

高商:川端孝和、斉藤国男、黒田実郎、前林義邦、近藤一郎、小林弘

浜田佳夫:S16年(1941年)大阪府立今宮中学卒、同年大阪商科大学予科に入学、漕艇部入部。

S18年7月浜田がエイト整調で出漕した関西選手権が戦中最後のレースとなり漕艇部の活動を停止することになる。S18年10月に学生の徴兵猶予特権が撤廃され、学徒動員のために12月に軍隊に入隊、南方の戦場を転戦し終戦後シンガポールの抑留地レンバン島からS21年5月に引揚げ船で和歌山に帰国した。

戦後S22年以降

再び学窓に戻り伊藤泰三、佐藤由夫が主になりしばらく途絶えていた部報[紅橈]の再刊を企画し[紅橈12号]をS22年4月に出版した。S22年9月卒業。高井メリヤス㈱に、後年紅橈会会長やH3年9月に体育会系0B会の連合組織として誕生した大阪市立大学スポーツアソシェーション(OCUSA)二代目会長にH11年就任し、H21年(2009年)5月逝去。

S21年10月20日に大阪新聞主催の第1回国民大会予選・琵琶湖レガッタが、10月27日には関西漕艇協会設立記念レースが開催された。S25年8月13日に第1回関西学生漕艇リーグが開催され、大阪商大は阪神地区の覇者となり、京都・滋賀地区代表の京都大と優勝校を決める瀬田川での決勝レースは1艇身差で優勝した。しかし、8月20日の関西選手権では京都大に1艇身1/3差で敗れた。その後、先輩達の熱烈な支援で、戦後初めて[全日本出漕]となり『戦後の市大漕艇部の第1期黄金時代』と称されてもよい一時代を築いた。

コーチは熊谷勇、クルーメンバーはコックス岩田文一郎(S26年卒)整調森野哲也(28年卒)7番柴田茂治(S25年卒)6番佐野研(S28年卒)5番薩摩嘉弘(キャプテンS26年卒)4番西京芳宏(S31年卒)3番岡田幸雄(S28年卒)2番田井陽一(S29年卒)バウ岡崎恒夫(S26年卒)です。補欠部員に岸本一夫(S26年卒)、岸原俊一S26年卒)、ウオーターマンに杉村芳生(S28年卒)がいた。

キャプテンの薩摩は市岡中学卒後、大阪商科大学に入学しS21年に漕艇部に入部、S25年度主将でS26年学部卒業し高島屋に勤務し役員となり、後にダイエーに転職した。最後は(財)大阪市都市型産業振興センターで活躍。7番柴田茂治はS4年(1929年)大阪市北区旅籠町に生まれ、S22年(1947年)明星商業(現明星学園高校)を卒業し、大阪商科大高商部に入学した。対抗クルーの7番漕手として、[時計の様な正確なピッチ、また商大漕法の模範の様な整調ペア]とローイングのテクニックを評された。S25年高商部卒、家業の柴田貴金属工業㈱に入社、社長業の大変忙しい中、S30年~S60年の長年コーチ、監督を再三引受けた。監督時代のS42年(1967年)には中藤コーチ(後述します)と共に佐野主将のクルーを擁して、戦後初の念願の関西選手権を制覇した。

その間S52年(1977年)に紅橈会会長に就任し退任されたS63年(1988年)まで新しい紅橈会規則制定や運営に尽くされた。惜しくも平成11年(1999年)12月逝去された。

6番佐野研は豊中中学から大阪商科大予科入学、S26年度,S27年度の主将で、1989年1月発刊の追悼記特集号で、熊谷勇氏は[骨太で脚が長く最も均整が取れ、意思的な容貌と共にオアズマンとしては目立つ存在であった。]とまた同期の岡田氏は[不動の六番漕手としての豪快なオール捌きと理論的且つ実践的な男であった。]と記述しています。S28年(1953年)学部卒業、日本硝子㈱入社。S35年(1960年)度のコーチ、今後の紅橈会の発展を担う事を期待されたがS60年(1985年)5月病に侵され逝去。

杉村芳生は市岡中学卒後、大阪商科大予科へ。S24年(1949年)学制改革により大阪商科大予科1年を修了して大阪市立大学1期生として大学生になり、ボート部に入部した。S28年経済学部を卒業しボート部OB糸岡さんの糸岡㈱に入社し、その後日本レミントン・ユニバック㈱(現日本ユニシス㈱)に移り、副社長を務め退社。紅橈会副会長、東京支部担当としてボート部を支えた。2006年(H16年)逝去された。

S28年(1953年)からS32年(1957年)に掛けて活躍したクルーとメンバーや試合経過は[紅橈29号]熊谷勇氏の追悼集で岩岡勤氏(S32年商学部卒S31年度主将)が16ページにわたり“大阪市大漕艇部 昭和28年~32年”に詳細に記述されています、参照にしてください。

S42年(1967年)は戦後初めて関西選手権に優勝した年度で柴田監督(S25年卒、前述)、中藤コーチ(S38年商卒)のもと、4月の朝日レガッタ2位、6月の中日本レガッタ3位、戸田コースで開催された北米漕艇選手権大会派遣代表決定競漕大会は慶応大に1/2挺身差2位で、7月の瀬田浦2000m直線コースで開催された関西選手権大会では決勝で同志社大、京都大、関西大を破り戦後初の優勝をした。続いて8月戸田開催の朝日招待レガッタで3位と健闘したが、9月戸田開催全日本選手権は準決勝で敗退した。

クルーメンバーはコツクス・中野久(商3回生)、整調・森脇郁朗(工4回生)、7番・吉田哲幸(商2回生)、6番・佐野孝(主将・工4回生)、5番・富樫宏次(工4回生)、4番・福本淳二(商3回生)、3番金岡智(商3回生)、2番巽良二(商2回生)、バウ高野洋一(法3回生)でした。

(注:写真の様にバウサイド整調でのシート番号)

(関西選手権優勝メンバー)               (朝日招待レガッタ決勝ゴール)

コーチの中藤は大阪府立市岡高校出身、S37年度の主将でS38年商学部卒業後京都の村田機械㈱に入社。H17年~H20年東京在住にも拘わらず強化委員長を引受け度々来阪し指導したが、H25年4月病で逝去。バウ高野は豊中高校出身、卒業後は大阪の岩岡印刷㈱に入社、紅橈会幹事として活躍もH25年7月急死した。高野と同期でS43年度の主務の角野昇八はS44年工学部土木科を卒業し大阪市立大学で研究生活に入り、工学部教授に、ボート部部長、大阪市立大副学長として活躍し今後を期待されたが副学長在任中に病に侵されH21年(2009年)12月逝去した。

編集後記

ボート部の人国記を現役時代産業社会人として活躍された方々を記述すれば数ページの紙面では足りず一冊の本になるくらい多くのOB・OGボート部員が在籍されています。今回の人国記は既に物故者になられた方の一部を記述しました。また、人国記を書くにあたり、他に見られる卒年、社会人としての経歴等の出世物語的な物を書こうとしていました、これは大きな間違いだと気づきました。我がボート部には他にはない[紅橈]という立派な部誌が創部以来時代毎に現役・OBOGの活躍の歴史を物語っているからです。この人国記の多くは[紅橈]1号から29号に掲載された記事から導きだしたものです。その意味からもボート部にとっては部誌[紅橈]が人国記そのものでしょう。今後とも[紅橈]を少なくとも3~4年に1回は必ず発刊しなければなりません。最後にこの人国記は紅橈会としては初めての試みです、これからも修正、訂正、追加が必要です。より完成度の高い第2版、第3版に発展を祈願します。

なお、今回熊谷文庫から[紅橈7号]が発見されましたので未完だった復刻版第二号の発刊に向けて編集作業を開始する予定です。

人国記編集人:木村勤(S39卒)